その日、俺は極度に体調が悪かった。
否、"悪い"などという可愛らしい言葉で済ませられる状況ではなく、"死にそう"とか"生命活動半停止状態"とかそういった表現をしたいくらいだった。正直、自分が今生きているのかどうかも危うい(もし今目の前に、光る輪を頭上に浮かべて羽を背負い込んだゴージャスな奴が現れても、俺は驚かない、きっと)。
こうなった原因は解っている。あれだ。あれしかない。
草の上、木の根元に寝転がった俺の隣でカサカサと音をたてる綺麗な包み紙を、苦い気分で見やる。「はじめまして」と、あまり表情を変えずに言った少女の翠の瞳が思い返されて、それと同時に、包み紙の中にあったクッキー(で、果たしてあっているんだろうか)の味も甦って、さらに気分が悪くなる。最悪だ。
愛らしいビアンキ。彼女からはもう一生涯物を貰うまい、と、今日が初対面であったにも関わらず心に決める(ついでに将来「忘れられない女性はいますか?」と尋ねられたら、真っ先に彼女の名前を挙げる事も決意する。勿論、ワーストワンで)。
凡そ食べ物とは言えない味をした、得体の知れない物を飲み込んでしまった俺の身体は、健気にも消化を試みているらしく、先程から腹はゴロゴロと雷の様に鳴り続けている。同時に、胃袋に重い石を五つか六つ放り込まれた様な感触と、それがあるにも関わらず胃袋を無理矢理引き伸ばす様な激痛が交互というか、もうとにかく引切り無しに襲ってくるので、脂汗が滝の様に出てくる。死にそうだ。いや、この様子だともう八割くらいは死んでいるかもしれないし、だとしたら、残りの二割だって虫の息だ。
まだまだやりたい事は沢山あったのに、短い人生だったな、といよいよ死を覚悟する。腹痛で死ぬなんて間抜けにも程がある、とも思う。

「…大丈夫?」

あぁ、ついに天使まで来てしまった。頭上から声がする。やっとの事で首を回すと、強烈な後光の中で、一組の翠色をした大きな目が俺を見ている。ビアンキの目の色にそっくりだ。俺は苦しさに目を閉じて、薄く溜め息を吐く。
神様、天使を迎えに寄越す時は、死人の心的外傷を気遣って下さい。これじゃあ俺があまりにも可哀想過ぎる。
そう思って、身体を丸めた俺を、小さな手が揺する。「ねぇ」と髪を引っ張る。
天使は俺が思っていたよりも随分と人間に近いらしく、指は柔らかくて温かい。あぁ、でも温かいのは当たり前か(確か、神への愛が燃えているのだと本に書いてあったから)。それじゃあ一体、どういう顔をしているんだろうか。本の挿絵では、"いかにも"といった風な天使や、間違ったって"天使"とは呼びたくないような気持ちの悪い赤ん坊の顔をくっつけたやつもいて、どうせ天国に連れて行ってもらうなら、前者の方が絶対に気分が良いに決まっている。果たして、どっちだ。

「…あれ?」

もう一度目を開けた俺の視界に飛び込んできたのは、天使の光輝く様な顔ではなく、皺くちゃの気持ち悪い赤ん坊の顔でもなく、小さな男の子の訝しげな顔だった。

「大丈夫?」

しゃがみ込んだ男の子はそう口にして、硬直した俺を映し込んだ翠色の目を瞬かせる。
俺が後光だと勘違いしていたのは、その子の銀に近い灰色の髪に日が当たっていたせいらしく、彼には光る輪も無ければ、羽も背負っていない。服も白くはなくて、俺と同じ、真っ黒な鴉みたいなスーツだった(まぁ、その子は子供らしい膝丈のズボンだったわけだけれど)。何処かで見た事のある様な顔つきと、なによりその瞳の色に、俺はその子供が何者であるかを瞬時に悟る。
ハヤトだ。
先程はビアンキの影に隠れていた、彼女の弟。
微かな緊張が解ける。

「ハヤト」

名前を呼ぶと、灰色の頭が傾げられる。ビアンキと同じ翠の瞳は、それを否定しないし、拒否もしない。

「俺、死にそう」

未だ治まらない腹痛に呻きながら訴えると、「俺も、いつも死にそう」と、ハヤトは言った。
カサカサと音をたてる綺麗な包み紙を拾った指は、そのままそれを弄る。細い。ピアノが上手い事は聞いていたので、あんなに細い指でどんな演奏をするのだろうか、と思う。

「如何して此処に?」
「アネキのお菓子食べちゃ駄目だ、て言おうと思ったから」

遅かったけど。
問いかけに小さな声で答えたハヤトは、俺の横へ座った。口ぶりから察するに、彼もビアンキのアレを経験しているのだろう。小作りの顔は、あの毒の様な菓子の味を思い出しているのか、多少顰められている。
あぁ、でも、それにしてもよく初対面の俺にそれを知らせようとしてくれたものだ(ピアノの事と一緒に、彼は人見知りが激しいのだという事も聞いていた)。
俺はハヤトの髪にゆっくりと手を伸ばす。

「ハヤトに教わったから、次からは気を付けるよ」

触れた髪は柔らかくて、猫を撫でた様な気分がする。
ハヤトは大きな目を二度三度と開け閉めした後、「…うん」と呟いた。其処にほんの少しだけだけれど、照れか、それに似た物を見つけて、俺は思わず唇に笑みを刷く。灰色の髪の毛は、俺に撫でられるままになっている。
まだ腹が痛い。けれど、羽の無い天使のおかげで多少は気分が良くなったから、死なないで済みそうだ(帰り着いた屋敷のロビーで力尽きる可能性はおおいにあるのだけれど)。

賢く浅はかな二人の遅かった邂逅

2007.2.1   上 au.舞流紆
アンケートは「幼少時代」支持も根強かったです。




























SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送