ホテルの部屋に備え付けてあった葉書には、ヴェネツィアの町並みが印刷されていた。海外渡航も多いピアニストという職業柄、このての量産型の絵葉書に出くわす機会は多いが、白地に単純な線でもって描かれた質素な橋と水路がなんとなく気に入って、一枚を抜き取る。多忙の合間を縫ってそれを買いに行く手間が省け、文面にその分の時間を費やしていられるのは有り難い。 早速椅子に腰掛け、手近にあったボールペンを手に取った。まずは相手の住所や名前なんかを書いてしまう。そういう事務的な事を全部終えてしまってから、息を吐き、改めてペンを握りなおす。 (何て書くか、) 葉書を出すのはこれが初めてでは無い筈なのに、俺は毎度の様にそう思う。近況を書いても仕方が無いし(俺がこちらで何をしているかなんて事は書かなくたって彼は知っているのだ)、かといって、可愛げのある言葉を書けよう筈も無い。それに、実のところはそう寂しくも無いというのが本音だ(そう書けば彼は間違いなく泣くだろうが)。 いつもと同じくさんざん迷った挙句、いつもと同じ様な字面を並べていく。 何時だったか、「お前からの葉書が届くと、あいつは途端に浮かれるんだぜ」と、ディーノの店に頻繁に出入りしているらしいシャマルに聞かされた。かれこれ十六歳の頃からもう八年の付き合いになるというのに、いまだにこんな味気も素っ気も無い文面にいちいち浮かれているのだと思うと、莫迦か、と言ってやりたくもなるけれど、純粋に嬉しいと感じる方が割合が大きい。 搭乗予定便の日時と、用事を済ませてから店に向かう旨だけを綴ると、譜面やら何やらを入れた鞄を掴み、葉書を手にして階下へ降りる。 (今日ばっかりは本番前に少し練習とかさせてもらわねーと、) 緩んでしまいそうだ。 足を止めた階段の踊り場で見上げたガラス越しの空からは、柔らかな雨が降り出している。 >> |
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