永い永い時を生きる吸血鬼たちの文化には、娯楽や嗜好品がたくさんあります。 チェス、音楽鑑賞、芸術活動、カードゲームやボードゲームでの賭け事、社交ダンスに乗馬。 煙草もそんなもののうちの一つです。 ライルさんは愛煙家の吸血鬼でしたから、リジェネさんと暮らすようになった今でも、しばしばぷかぷかしています。 ふう、と吐き出された白い煙が、緩やかな流線を描いて、フラットの中を漂いました。 街灯点燈夫のお仕事を終えてフラットへ戻ってきたライルさんが、煙草を吸っているのです。 煙草、と一口に言っても色々と種類があるのですが、ライルさんが吸っているのは水煙草。 ガラスでできた瓶の上に真鍮製の長い筒がくっついていて、その先端で燻らせた煙草の煙を、筒の半ばほどから伸びた管で吸います。 高さが1メートルを越すほどもある、この豪奢な水煙草は、ライルさんが随分前に知り合いの吸血鬼から譲ってもらった一品です(なんでも何処かの国の人間の貴族が使っていたものだそうで、深い青色をしたガラス瓶や真鍮の筒の部分には細かくて綺麗な彫り物や金箔での細工がしてあり、それから、小さいながらも質の良い宝石、輝石なんかも象嵌してありました)。 ライルさんはリジェネさんのフラットには私物を持ち込みませんでしたが、これだけは別です。 管を通ってやってくる、なんとも言えない味の煙を、ライルさんは舌の上で転がしては吐き出しています。 今日の煙草はとっておきの銘柄、"断崖の女王(レウコトリカ)"でしたから、ソファベッドに腰掛けて、目を伏せ、じっくりと味わっているようです(吸血鬼たちは娯楽や嗜好品の改良や模索には労力を惜しみませんでしたので、色々な銘柄の煙草がありました。ライルさんがよく吸っているのは此処最近(といっても、10年間ほどもあるのですが)流行している軽めのものではなくて、ちょっとクラシカルで重厚なタイプの"断崖の女王"や"雪の輪殿(ペリドゥス)"という銘柄の煙草です。どちらも味は濃い目で辛く、けれども、少し甘めの後味と匂いがします)。 水煙草をやると、とかく喉がよく渇くものですから、薄めの紅茶を飲み飲み、ぷかぷかします。 フラットを漂う煙が、厚みを増しては薄まってゆきます。 肌からも染み透ってくる匂いには、独特の、少し浮遊感のある、不思議な甘さがあって、なんとも言えない気分がします。 そんな具合でとってもお楽しみ中だったライルさんは、けれども、いきなり目を見開きました。 「やべ、」 そんな声をあげ、突如として立ち上がると、ばたばたと慌しくお片付けを始めます。 先程までのゆったりとした気分や雰囲気は何処へやら、まだ燃えかけだった煙草の炭を消し、水煙草の装置を部屋の隅っこへ移動させます。 窓はもれなく全開にして、部屋にうっすらと膜を張っていた煙の大半を外へ逃がしました。 そのうえ、それだけではどうにも間に合わない、といった風に、ライルさんはソファベッドにかかっていたブランケットをばさばさし始めます。 一体全体如何したのでしょう。 何があったのでしょうか。 しつこく残っている匂いや煙をなるたけ飛ばそうと、ライルさんがまだまだばさばさしていると、フラットのドアが開きました。 入ってきたのは、お仕事帰りのリジェネさんです。 ブランケットを必死こいてばさばさしているライルさんを見たリジェネさんは、こう言いました。 「ご苦労様」 その言葉に、ライルさんは「おかえり」と返します。 それから、「まだ少し煙があるか?悪い、気付くのが遅れた」と続けました。 そうです。 愛煙家なライルさんが暮らしているフラットの家主であるリジェネさんは、煙たいのが大嫌いなのでした。 どのくらい嫌いなのかと言いますと、煙草を吸っている人がいるお店にはまず入りませんし、道端で吸っている人がいると、たとえ遠回りになっても避けて歩くほどです(吸血鬼ハンターのお仕事をしている時は、また話が別です)。 でも、やっぱりちょっとは煙草が吸いたい。 そんな風に言ったライルさんとの妥協策としてリジェネさんが提案したのは、自分がフラットにいる間は煙草を吸わないことと、自分がフラットへ帰ってきた時に煙草の煙を残しておかないことでした。 吸血鬼の聴覚は人間のそれよりもうんと優れていますから、遠くの方から歩いてくる足音を聞いただけで、その人が知っている人なのか知らない人なのか、知っている人ならばその人が誰なのかが大体判ります。 ですから、ライルさんは、リジェネさんの足音に気が付いたら直ちに煙草の火を消して、窓を開け、煙を外へ出しているのでした(水煙草は時間をかけてじっくりと吸うものですから、窓辺で立ったまま、なんて吸い方は出来ません。それに、ライルさんが水煙草を吸う時というのは、何も考えずにぼーっとしたい時か、小難しい事を考えたい時でしたので、なるべく座って吸いたいのです)。 「全く面倒だね」 そう言ったリジェネさんは、お茶でも飲むつもりでしょうか、お湯を沸かし始めます。 ライルさんにはお構いなしで、やっぱりとってもマイペースです。 「おかげさまでな」 そう返したライルさんは、まだまだばさばさしています。 たまに「もういいか?」という意味を込めて、リジェネさんを見るのですが、眼鏡の向こうの真っ赤な目は、すい、と逸らされるばかりです。 どうやら今しばらく、ライルさんはばさばさしていなくてはいけないようでした。 ライルさんとリジェネさんと 水煙草のおはなし 2009.2.16 上 au.舞流紆 ライルさんもぷっかぷか、 (作中の煙草の銘柄はほんとうはサボテンのお名前です、さぼカッコイイ、) |
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